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ねことパンの日々

ねことパンの日々

ドライ・ジン


ドライ・ジン

 入院を目前に控えた先週の土曜日、妻が外の食事に誘ってくれた。
家から歩いて5分ほどのところにある焼鳥屋で一杯。その後、久しく足を向けていなかったバーに立ち寄った。
 若い夫婦が切り盛りする、気さくで落ち着ける店である。主は私と妻をアイラモルトの魅力に誘った張本人であり、夫人は変わり種のカクテルで妻を悦ばせてくれる(今回は「焼きリンゴ」だった)。体調を崩して以来訪れることがなかったが、今回は珍しく妻の許可が下りた。
とりとめの無い話をしながら杯を重ね、最後は何故か、ひねくれてマティーニなぞを注文したところ、夫人が「そういえば、古いボトルのタンカレーありますよ、ストレートで如何ですか」と勧めてくれた。
 意外な、そして嬉しい提案だった。

    *   *   *   *   *

 旧ボトル   新ボトル


 タンカレー(Tanqueray)とは、ビーフィーターやゴードンと並ぶ、有名なジンの銘柄である。消火栓をモティーフにしたと云われるずんぐりとしたボトルが何とも愛らしい。ネズの実(ジュニパーベリー)の香が他のドライ・ジンより僅かに強く(と私は思っている)、口当たりはまろやかだが直後にビリリとジン独特の刺激がある。
 この酒を、私は廿年程前に知った。粋がって態と強い酒を好んだその頃、可愛いボトルと未体験の芳香に惹かれ、初めて購入したハードリカーである。以来暫くの間、小さな冷蔵庫の冷凍室の半分をこの一瓶が占拠していた。
 家でこの酒を飲むのは、大抵一人の時であったと記憶する。だから、これは慰めの酒であったに違いない。落ち込んだ時、腹立たしい時、静かに物思いに耽りたい時、ちびりちびりと飲ったのであろう。
 冷凍庫から瓶を取り出した瞬間、ベルベットのような霜が瓶全体を覆う。冷えたショットグラスに、とろりと透明な液体を注ぐ。その光景が堪らなく美しいと感じ、その一時を大切に味わっていた。まだ未来に大きな夢と不安を同時に抱えていた頃の、少々酸っぱい思い出である。

 そのタンカレーのボトルが変わったことを知ったのが、今回訪れたバーであった。いやボトルだけでなく、中身も変わったのだ。
 冷やしたタンカレーをストレートで注文する客など、当時その店には居なかったと見えて、夫人は少々慌て気味だったのを憶えている。ボトルと共に味も少し変わった(落ちた)ことを説明しながら、申し訳なさそうに彼女が勧めてくれたのは、同じタンカレーでも「ナンバー・テン」という、少々偉そうな(?)ボトルのジンだった。ロックで飲んだが、芳香はかつてのタンカレーよりやや上品で、ビリリとくる刺激は少し抑えめである。美味いことは美味いが、お高く留まった雰囲気がいただけない。

 タンカレー ナンバー・テン


 その時は、満足と不満がないまぜになったまま店を後にした。後日自分で新しいタンカレーを一瓶買って飲んでみると、これは少々角が強すぎる。芳香も薄くて、安っぽい感じだ。往事の面影を残しつつも、不似合いな役柄に手を出したやや落ちぶれた俳優、といった体である。
 若き日は遠くなりにけり、と勝手にセンチメンタルな気分に浸りつつ、そのボトルは早々に空いてしまった。

    *   *   *   *   *

 そんなことを思い返していると、目の前にベルベットのような霜を纏ったタンカレーの瓶が現れた。
 店内を仄かに明るくする夕焼け色の光が、グラスにゆっくりと注がれる液体に屈折して、ゆらゆらと揺らめく。途端にグラスは霧に煙る。口に運ぶと、鼻腔一杯に「あの」香が広がる。アルコールが舌をビリリと刺激する。やはりこの味だ、これでなければ。
 どうやら、私の脳はあの頃の記憶とこの一杯を同期させるのに必死らしい。いや、たとえ気のせいであったとしても、今日限りは、これを「あの」味と香そのものと思いたいのだ。
 小さなグラスに入った透明な液体を見つめてほくそ笑む私を、妻は不思議な面持ちで眺めていた。

 店を出る時、ドアを開けながら夫人は云った。
 「あのタンカレー、次にいらっしゃる時までとっておきますね。あとワンショット分、残っていますから」

 意外で、しかし有り難い申し出だった。








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